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ツギハギの布

優しい先生の思い出です。
私が小学一年生か、二年生のある日、担任の先生に、連絡帳入れを作るので、お母さんに頼んで新聞紙位の大きさの布を持ってくるように言われました。厚紙に布を貼り、両端を縫い止めて連絡帳入れを手作りするのです。
私が母に言うのが遅くて間に合わなかっさたのか?お金が無くて買えなかったのか?分かりませんが、母は半端な小さな布を縫い合わせて、新聞紙の大きさにすると、私に渡しました。パッチワークのような美しい物ではなく、ただ足りないから足しただけの物です。
学校で、みんな布を出し、広げてみると、ツギハギした布を持ってきているのは私一人しか居ませんでした。私は、おさな心にも恥ずかしくて、布を隠したくなってしまうほどでした。隣の席の子にも、何か言われていたのか?先生が私の布を見に来ました。

私の大好きだった先生は、惨めに感じている私にすぐ気が付き、みんなの前でこう言う事を言ったのです。「うさ吉さんのお母さんは立派ですね!こうして布を縫い合わせて物を大切にしています。とっても素晴らしい!こういう布が良いんですよ!」と。

私は嬉しくなり、ツギハギの布が逆に誇らしくなりました。

一年間、惨めな気持ちで連絡帳入れを見る事になるところを、先生の一言で、全く逆の気持ちになれたのです。

たった一言、それだけで人間の気持ちは変わってしまいます。

何を言うか?どう言うか?とても大切な事だと思います。特に子どもに対しては…。

忙しいから、自分も大変だから、と蔑ろにしてはいけない事です。

先生を思い出すと、子どもの自分は笑顔になり、大人の自分はシュンとします。先生のような大人に成れてないかも…と反省して…。

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by usakichi71 | 2017-10-25 17:45 | つぶやき | Trackback | Comments(0)

兄のこと

昔々、私が子どもの頃、ウルトラマンの中でブースカと言う怪獣がいて、私の兄はブースカが大好きでした。兄も私も大人しい性格で、喧嘩は滅多にしないのですが、喧嘩して、妹の私が泣きながら叫ぶ決め台詞は「ブースカ殺すぞ」でした。そうすると、兄は「やめて!やめて!謝るから!」と、あっさりと降参してくれました。全く不思議になるほど効果があるので、これは本当に奥の手に取っておかないと…と幼心に思ったものです。ブースカの人形は今はもう無いと思うけど、ブースカも可愛い怪獣さんでした。

取っ組み合いの喧嘩をする事も無く、張り合って何かする事も無く、訳あって学校も別々だったので、私と兄は兄弟なのに一緒に遊んだ記憶もあまりありません。

そんな兄弟ですが、今は毎日ラインで連絡を取っています。そして、昨日は兄の誕生日。
54歳になりました。
兄弟は他人の始まりとか言うけれど、独身の兄にとっては私は大切な家族なんだと思います。

お互い年をとったので、ラインの会話も挨拶と天気と身体の調子ばかりです。

子どもの頃には想像もしなかった事って、色々あるものですね。

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春が確実に近くなってきた!そう、感じた朝でした。







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by usakichi71 | 2017-03-02 07:35 | つぶやき | Trackback | Comments(0)

ピーターラビット展

8月から渋谷のBunkamuraでやっていた「ピーターラビット展」。
長崎旅行から帰ってきた翌日、明日からまた仕事だし、ゆっくり出来るのも今日だけ!と思いながら、お茶を入れていた午後3時。はっ!と思い出したのです。会期は10月11日まで!今日は10日!
「今日、見にいかないと!!!」

さっきまで、ゆっくりしょうと思っていたのに、慌ててしたくをすると、30分後には電車に乗っていました。
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ピーターラビットと私の出会いは小学二年生の時。図工の時間に紙粘土で好きな物を作る事になり、私は好きなウサギを作ることにしたのです。その頃はウサギを飼ったことはなくて、記憶に頼りながら作っていたのですが、保育園で見た、「しろいうさぎとくろいうさぎ」の絵本のイメージだったのかな?わかりませんが、兎に角、私はうさぎを作りました。すると、なぜだか?いつも私はとても速く仕事が終わってしまいます。やる事が無くなってしまうので、ついには先生に、先に帰っていいよといわれてしまうほどでした。そんな速作品にもかかわらず、無事完成したウサギさん。その、作品に名前を付ける時、先生が私にこう聞いたのです。「これは、ピーターラビットなのかな?」私はピーターラビットを知らなかったので「うーん?」と呟きましたが、無口で静かな私は「ただのうさぎ」としか言えなかったと思います。そして、何故か作品名は「ピーターラビット」と決定。私の作ったウサギさんは普通にリアルなウサギ(洋服着てないし)だったのですが、上手に出来ていたらしく、ほかの子どもたちが動物の足の形や顔の形をうまく作れず棒のようになっているところを、何故か私は見ているみたいに上手に作っていたそうです。そのウサギさんはその後、市の作品展にも出す事になりました。

と、これが、私とピーターラビットの出会いとなりました。ピーターラビットを知らないのに、ピーターラビットを作った事になってしまい、あまりいい気持ちではなかったのですが、あとからピーターラビットを知った時、リアルに可愛いウサギさんだったので、直ぐに好きになりました。

そして、ただ単に可愛いウサギさんのキャラクターと思っていたのに、その思いを覆す、きっかけの展覧会が、昔、あったのです。それは、1990年、わたしが何と25歳の頃、ピーターラビット展「世界一愛されたウサギ」がありました。そして、そこで、ビアトリクス・ポターとナショナルトラスト運動についても知り、湖水地方を知りました。私財を投げうって、自分たちの大切にしている風景を守ろうとする人がいる。その事が大変な驚きでした!ピーターラビットの可愛い絵を描く下地には、精密なデッサンがある事も知りました。その時のチラシも取ってありました。
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そんな訳で、いつかは湖水地方にも行ってみたいし、子ども達にピーターラビットの絵本も読んであげたいと思っていました。そして、もう26年も経っているのですが、イギリスには行っていません。
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25年くらいは直ぐに過ぎてしまうので、次に思い出したら77歳くらいという可能性もあります!そうならないように!自分にハッパをかけないと!

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by usakichi71 | 2016-10-26 20:32 | おでかけ | Trackback | Comments(0)

世田谷線

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職場へ通う線路沿いに咲くタチアオイ。綺麗に咲いてます。この線路は世田谷線の線路です。2両編成の電車が住宅のすぐそばをノンビリ走っています。私が就職した頃は電車の床も窓も木製で、エアコンも無く、夏は扇風機が回ってたな~。
今でも毎日乗っているけど、昔の車輌が懐かしい。雨の日は窓を伝う雨粒を見たくて、よく、窓際に立っていました。
今日は今年退職した元上司の退職お祝い会でした。
退職のお祝い会なのに、私も異動して苦労している話をすると、みんな私よりも先輩なので色々教えてくれたり、慰めてくれたり…。嬉しかったです。
同じ職場の頃、こんな事があっね、と話していると、子育てにも四苦八苦していた自分を思い出し、時が流れて、こんなに穏やかに子ども達を見つめている自分を、あの頃の私に教えてあげたいと、思ったり。

とにかく、時が流れて、悪いことばかりではないと、思うのでした。

ゴトゴト走る世田谷線。同じ線路の上を18歳の私も50歳の私も通っているんだな。

そんな事を思ったのでした。


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by usakichi71 | 2016-06-10 18:07 | つぶやき | Trackback | Comments(0)

茶々丸くんの思い出

4年前の4月10日、長男が大学の帰り道で子猫を拾ってきました。その子が茶々丸です。茶々丸は4月22日には亡くなってしまったので、たったの13日間しか一緒に居られなかったのですが、今でも思い出すと胸が痛くなります。小さな子猫で、目は目やにで開くことも出来ませんでした。ミルクを飲む力も無く、どんどん衰弱して亡くなってしまいましたが、もっと頑張って看病したら命を救えなかったのかな?とか、私の看病の仕方が悪かったのかな?とか、考えては自分を責め、あんなに小さな子猫が一人で天国まで行かなきゃいけないのか…と思うと悲しくて、とにかく、亡くなった最初の一日は日曜日だったので、家でも、火葬場に行っても、ずっと泣いていた気がします。まだ、衰弱がひどくなる前は、トコトコと家の中を歩いたこともありました。思い出が少ししかなくて、写真もほとんどありません。ピンぼけの携帯で撮った写真だけ…。
お寺で火葬してもらい、骨壺に入った茶々丸くんを抱っこして「ごめんね…ごめんね…。」と謝り続けていました。
そんな私を見て、夫が1か月間毎日、茶々丸のためにお経をあげてくれました。

生きていたらもう4歳。寅吉と同じくらいの猫さんになっていたのでしょうね。
大きくなった茶々丸にも会ってみたかったな…と思います。


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by usakichi71 | 2016-04-11 21:58 | つぶやき | Trackback | Comments(0)

ブッチーの思い出

ウサギのランコや猫のミーナの事を思い出したら、仔猫のブッチーの事も思い出しました。仔猫のブッチーのお世話をしたのはもう、私も高校生の時でした。女子高に通う、暗い女の子でした。ブッチーは友達が拾ってきた仔猫で、白地に茶色のブチがあり、今にも死にそうな弱った仔猫でした。私が何故か世話することになり、玩具の哺乳瓶に温めた猫のミルクを入れて飲ませました。何日か世話すると、今にも 死にそうだったのに、すごく元気な仔猫になり、私の手にじゃれ付いて来るようになりました。それで、私の手は傷だらけ、仔猫の爪で引っかかれた跡だらけでした。身体も大きくなりました。でも、残念な事に、私は猫語は喋れません。ブッチーに、躾をする事は出来ませんでした。いつも楽しそうに遊んでいたブッチー。
一枚だけ、私が描いた油絵があったのですが、何年か前に兄が燃やしてしまったそうです。
仔猫から少し大きな猫になり、このまま大きくなると思っていたのですが、昔なので飼い方もいい加減で、窓や戸も開けっ放しだったのでしょう。ある日、一階で誰かが私を呼んでいました。階段を降りて一階に行くと玄関先で新聞屋さんのオートバイが、止まっていて、ブッチーがお兄ちゃんの手の中でぐったりしていました。
「急に飛び出して来たんです!」と新聞屋さんは言いました。「じゃれつくみたいに!」

多分、それは、本当なのかもしれません。
とにかく、私はブッチーをタオルにくるみ、兄と獣医さんの所へ向かいました。車の中で、ひざに載せて、急いで駆けつけましたが、もう、病院までも持たず、私の手の中でブッチーは死んでしまいました。

どんな風に亡くなったのか?はっきりと思い出せないのは、悲しい思い出は消してしまいたいからなのかな?
家に帰り、ブッチーを寝かせて泣いていました。兄も私も、わんわん泣いていました。泣いていたら、黒い小さな蚤がブッチーの身体からたくさん出てきました。死んでしまったら、出ていくなんて、蚤もなんて、薄情なんだ!と思うとますます涙が出てきました。

それに、私が大切に思っている動物はみんな直ぐ死んでしまう。ランコも死んでしまったし…。
こんなにこんなに小さなブッチーも死んでしまった。 私が猫語を喋れないから。オートバイは危ないよと教えてあげられなかったから。

そんな風に考えて、泣いて泣いて泣いて。翌日起きたら目が腫れて宇宙人の様な埴輪の様な、ひどい顔になっていました。でも、学校を休むと言う発想も無かったので、その顔で学校へ行きました。担任の先生に呼び止められ、どうしたんだ?と聞かれ「猫が死んだんです!」と言うと、何故か先生はホッとした顔になり、私はその事が腑に落ちず、大人になってから、先生はもっと恐ろしい事を想像していたのかな?と思うようになりました。あの時の私には子猫の死も十分恐ろしく悲しい出来事だったのですが。

そんな風に、ブッチーとはお別れになりました。天国のブッチーはもう、私のことも忘れちゃったかな?虹のたもとで会えたらいいなと、思います。

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by usakichi71 | 2016-03-16 19:00 | つぶやき | Trackback | Comments(0)

子雀の思い出

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私が小学校の一年生のころ、子雀を捕まえた事がありました。家の外でフラフラしてたら、小さな雀が低空飛行しているのを見つけたのです。家に大急ぎで戻ると、ハンカチを一枚、持って、また子雀の側まで行きました。子雀は、ちょっとしか飛べなくて、フラフラしていたので、ハンカチを上から載せただけですぐに捕まりました。野鳥は飼っちゃいけないのですが、小さな時なので雀を捕まえた事が嬉しくて、家に連れて帰ってしまいました。私は子雀をカゴのような素材のゴミ箱に入れて、餌を上げてみましたが食べません。餌を食べないと死んでしまう!ととても焦りました。子雀を外に離してあげたいけど小さいから飛ぶことも上手に出来ないし。どうにもできなくて、子雀はカゴに入れたまま夜になり、そして朝になりました。

朝、母に子雀は?と聞くと、母は「お母さん雀が迎えに来たのよ!朝、外で雀が大きな声で鳴いていたの。」「雀は凄いわね!」と驚いたように言いました。カゴのゴミ箱は空になり、私は子雀は飛んで行ったのだと信じていました。

大人になって、私はこの事を思い出す度、この事は本当か?嘘なのか?と考えます。母には聞いていません。覚えていない気もするし、母が小さな私を傷つけないように考えてくれた嘘ならそれを暴いたところで仕方ないし。もしも嘘で子雀を私が殺してしまったなら、と考えると辛いですが。
死んだあとにあの世で会えたら子雀に謝りたいと思います。
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by usakichi71 | 2016-03-09 17:45 | つぶやき | Trackback | Comments(0)

ウサギのランコの思い出

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左手首の甲側にある擦り傷の痕はウサギのランコの思い出です。

ランコは父が買って来てくれたウサギです。私が小学5年生の時でした。ちゃんとしたペットショップで買った訳ではなく、駅前の露店で売られていたのを、なんの計画も無しに買って来てしまったようです。
小さな茶色のケーキの箱のような物を差し出され、中にウサギが入って居るのを見た時はものすごく嬉しかったです。
父の無計画な行動は母を怒らせました。でも、直ぐに捨ててしまう程でも無かったので、良かったです。
ウサギは手のひらに乗る位の小さなウサギで身体は灰色でした。目は茶色で、野ウサギのような風情です。すぐに名前は「ランコ(蘭子)」に決まりました。なぜその名前にしたのか?思い出せないのですが、私が決めたのは間違いありません。はじめはゲージも無いので、段ボールの箱の様なものの中に入れて野菜を上げました。父がウサギはタンポポが好きなんだ。と言うので、大急ぎで外に行き、タンポポを摘んで来て、食べさせました。食べさせるとき、「蘭子、蘭子、こっちだよ〜!」と、名前を呼びながら上げました。そうして名前を覚えさせようとしたのです。
ランコは私にとってもよく懐き、私をお母さんか、恋人のように好いてくれました。家の中では付いてまわり、朝は母や父に小屋から出してもらうと一目散に私の枕元に来て顔をペロペロ舐めました。学校から帰って来ると、掃き出し窓の向こうで私を待っている姿が見えて、私が部屋に入ると大ジャンプで喜びを表現します。ウサギは鳴かないし、感情表現は余り無いと思っている人もいるかも知れませんが、ランコの感情の起伏は人間と同じで、好きな人、嫌いな人もとてもはっきりしていました。好きな人は私、嫌いな人は母でした。母はバイクで通勤していましたが、ランコは母のバイクの音をしっかりと聞き分け、母のバイクが近付くと、後ろ足を床にバン!と打ち付けて怒りを表現するのです。同じバイクでも、母の物か他の物か、はっきり聞き分けるので、ランコを見ていると母が帰ってくるのが事前に分かるのです。
放課後はずっと一緒でした。抱っこしたり、エサを上げたり、子どもなりに一生懸命可愛がりました。父はランコはミニウサギだと言っていたのですが、全然ミニウサギではなくて、半年もしないうちに、大きなネコ位の大きさになりました。
ウサギを含めて動物はお腹を上にしてぐっすり眠る事は余り無いと思いますが、ランコは私が抱っこしているといつもお腹を上にして、ぐっすりと寝てしまい、身体のどこを触っても怒りませんでした。
ランコは時々お腹を壊すことがありました。病気のようなので、動物病院に連れて行かなきゃならなくなった時も、私はランコをただ、抱っこして連れて行きました。歩いて20分位?でしたが、ゲージも無いし、首輪やリードも無いので、ただ抱っこするしかありませんでした。でも、ランコは私にとっても懐いているので、それまでにも何度も外に行き、多摩川では放して散歩させたりしていたので、逃げてしまうとか、考えてもいませんでした。人間が愛情込めてお世話すれば、こんなに懐いて仲良くなれるのか、と単純に信じていましたが、獣医さんはそんなランコにとても驚いていました。そんな風にランコを獣医さんに連れて行くある日の事でした。いつものようにランコを胸の高さで両手で抱っこ歩いていたら、私は何かにつまずいて転んでしまいました。ランコは片手で抱けない位大きな体だったので、私は倒れながら考えたのでしょうか?手を離して地面に手を着くか?離さずに転ぶか?手を離せばランコは落ちて怪我をするかもしれない?どうしょう!と…。結局私はランコを抱っこしたまま倒れました。倒れて左手首の甲側で体重を支えたのです。そして自分の体でランコを潰さないよう、必死で腕をそのままの形に保ちまし た。
幸い、ランコに怪我は無く、私の左手首には直径4、5センチの擦り傷が出来てしまいました。足も擦りむいたのでしょうが、とにかく手の方はひどかったらしく今も痕が消えません。
でも、その時も痛くはありませんでした。本当に不思議ですが…。

ランコはトイレも決まったところでするし、賢くてとても可愛かったのですが、ウサギなので、穴を掘るのが習性でした。そのため、お布団に穴をあけたり、畳に穴をあけてしまいました。それに歯が伸びるので、固いコードを噛んで切ってしまったり、大人にとっては害獣そのものだったのでしょうね、ある日、母はついに堪忍袋の緒が切れたようで、ランコを多摩川のどこかへ捨てに行ってしまいました。飼いはじめて1年ぐらいだったと思います。
泣きながら、多摩川を探し回りましたが、見つかりませんでした…

その後、半年か一年ぐらい後に学校の飼育小屋に保護されたりした後、ランコは私の所に戻ってきましたが、その時にはもう、私を忘れていました。私を忘れてしまったランコはもう、普通の動物園にいるウサギたちと同じになってしまいました。

さらにその後、ランコは犬に噛まれて死んでしまうのですが、思い出すと涙と自責の念で今も苦しくてしかたなくて、思い出したくない記憶なので、まだ、書き留めることが出来ません。子どもの頃はカメラも無かったので写真もほとんどなくて、寂しいです。

でも、ランコは私にとって世界一のウサギさんでした。
柔らかい、灰色の毛と、優しい大きな目。私に走り寄ってくる時の飛び跳ねる嬉しそうな姿、いつまでもいつまでも、私の心の中で生きていてほしいと思います。
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by usakichi71 | 2016-01-30 21:50 | つぶやき | Trackback | Comments(0)

左手首の傷

私の左手首には内側に小さな切り傷のあとと手の甲の側に茶色く小さな擦り傷のあとがあります。どちらも小学生の時の傷なので40年位前の傷ということになります。こんなに経っても傷は消えずに残っていますが、だんだんと小さくなりました。それぞれに猫とウサギの思い出がある傷なので、消えないで欲しいと思うようになってきました。
時々思い出さないと、猫とウサギの名前も忘れてしまいそうです。昨日、娘たちにウサギの話をしていて、思い出しました。
私が生まれて初めて仲良くなった猫、それがミーナでした。ミーナとは私がつけた名前で、後からオスだと分かったのですが、初めは女の子だと思っていたのです。西城秀樹の「傷だらけのローラ」と言う歌が流行っていて、何となく似た名前にしちゃったな、と思ったことを思い出しました。白と茶色の毛をしている野良猫で、団地の何処かで生まれて、私と出会い、そして、仲良くなりました。赤ちゃん猫ではないし、若い猫でも無かったような気がします。私は小学2年生で、犬は怖くて触れないけど猫は大好きでした。ひっかかれたり噛まれた事もなく、ミーナも野良猫なのにとても人に懐いていました。台所に卓袱台を置いてご飯を食べていたら、庭先に猫が通りがかり、ふと、オカズの欠片を投げてあげたら猫が通って来るようになり。来ると庭先でニャ~と泣いて合図するようになりました。そのうち、抱っこしたり出来るようになり、名前もつけました。でも、団地なので、もちろんペット飼育は禁止だったのです。ミーナも来ればエサをあげるけど、うちの猫とも言えなくて、通い猫の状態でした。母はミーナを嫌がり、いつも怒っていました。オス猫なので、だいぶ大きな猫だつたのか?大きさまでは思い出せないけど、他所でマーキングしたり迷惑をかけていたのかもしれません。母は「うちの猫だと思われると困る!」と、怒って、私を叱りました。でも、父はそんな事では怒らなくて、私が猫に癒される気持を分かってくれていました。でも、大人としては無責任な態度と母は思っていたのでしょうね。「いつも、私が悪者になる。」と嘆いていました。大人しくて、無口な私には、人間の友達よりも、人間の言葉も通じない猫とのコミュニケーションが、楽しいものでした。別にいつも一人ぼっちだった訳ではないけど、鍵っ子だったし、放課後に通う学童保育も無かったし、なんの習い事もしていませんでした。ふらりとやって来て、柔らかい体をすり寄せて甘えてくる猫を抱っこした時の嬉しさは忘れられません。可愛いな~心底思って、ミーナが来てくれるのが嬉しかった。ある日、ミーナが家の中まで入って来て、私が抱っこしていたら、母に見つかってしまいました。母は余程頭に来たのか?そばにあった大きな箒を振り上げて、ミーナを叩こうとしてきたのです。慌てて私はミーナを抱っこしたまま外へ出そうと掃き出し窓の方へ行ったのですが、間に合わず、ミーナの体にお母さんの振りおろした箒があたりました。ミーナはニャン!と声をあげ、私の腕から庭に飛び降りて行きました。私はミーナが可哀想で心配で呆然としていました。そして、母が何やら叫んだのでふと見ると、左手の親指の付け根から脇の下近くまで猫の引っ掻き傷が残っていました。でも、不思議に痛みは全く感じませんでした。傷は手首部分が一番深く、脇の方はごく浅い傷でした。母は「なんて悪いネコだ!」とまた怒り、傷の事は本当は心配したかもしれませんが、何も言わなかったと思います。でも、手首の傷だけがずーっと残ってしまいました。傷は小さい頃は10cm位あったのに、今は2cm位です。ミーナを心配してたら、傷も痛くなかった。その事が幼心に不思議でした。
ミーナはその後母に遠くに捨てに行かれてしまい、とても悲しい思いをしました。大人になって母の立場も分かるようにはなったけど、私は絶対同じ事はしたくないと思いました。子どもが動物を飼いたいと言ったら、望みを叶えてあげたいし、例え子どもがその動物に無責任だったとしても、自分が責任を持って、死ぬまで愛情を持って世話する覚悟を持とうと思いました。ミーナに苦しい思いをさせてしまった事が今でも悲しくて、思い出すと泣けてきます。あの子は私と出会えて幸せだったのか?いつか虹のたもとで出会えたら聞いてみたいです。
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by usakichi71 | 2016-01-05 07:30 | つぶやき | Trackback | Comments(0)

バイオリンの音

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クリスマスコンサートで千住真理子さんの演奏を聴いていて、突然思い出した事がありました。千住真理子さんが独奏でバイオリンの音だけがホールに響いていたとき、私が子どもの頃もこの音、毎日聞いていたな。と記憶がよみがえりました。
バイオリンの「音」の事で、曲のことではないのてす。
私が子どものころ住んでいた団地は2階建ての長屋のような作りで、8畳くらいの庭が付いていました。六歳頃そこに引っ越して行ったのですが、引っ越してみると、お隣の庭にはロープが張られていて何個も作りかけのバイオリンが干してありました。お隣の人はバイオリンを作る人だったのです。バイオリンは高いものなのかな?と思うのに、隣の人は我が家と同じく貧乏な感じで、バイオリンを作るおじさんは私と同じく無口で、会ってもお互い目をそらし合うような関係でしたので、おじさんの思い出は何もないのですが、毎日のようにお隣から流れてきたバイオリンの音は忘れられない不協和音で、ギーッゴーッギーッと何の音楽でもないような音でした。何でお隣の人は全くバイオリンで、音楽を弾かなかったのかな? 今となっては無理な話ですが、おじさんと話してみれば良かったなと、思います。音楽らしい音が流れて来たことはなく、ただ、作製途中の音しか聞かなけったけど、だんだんと出来上がるのは分かったし、干してあるバイオリンは形がきれいで、眺めているのは好きでした。私より年上のお子さんがいて、息子さんもお父さんと一緒に作ってました。ついでに思い出したのが反対側のお隣で、私と同じ年の男の子が住んでいたのですが、一度も遊びませんでした。お隣のお母さんはすごい「教育ママ」という感じの方で、鍵っ子の私とは話もしたくないらしく、息子にも私と話さないように言っていたのかな?遊んだ記憶も話した記憶も無いのです。隣に住んでいたのに。でも、団地なので近所にはたくさん子どもがいて、外で遊んでも遊び相手には困りませんでした。あの男の子も私と同じ50歳になっているのな?そして、あの教育熱心なオバサマの教育は成功をおさめたのでしょうか。
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by usakichi71 | 2015-12-24 07:40 | つぶやき | Trackback | Comments(0)